「原稿用紙」と「400字詰め」はセットとして捉えられており、「原稿用紙の起源」は「400字詰めの起源」と当然イコールであると考えられがちです。
ですが、私はこの両者はイコールではないのではないかと考えています。 別々に起源があり、どこかで結びついたと思っているのです。 そのような理由から、私は出来るだけこの2つを別の視点で捉え検証を進めていきたいと思っています。
登録有形文化財の温故学会会館 |
今回は一般に「原稿用紙の起源」ともされている、塙保己一(読み:はなわ ほきいち)の版木を取材させて頂きました。(先ほどの私の考え方からすると、これは「400字詰めの起源」の方であると思うのですが。。) 取材に伺ったのは渋谷区東の温故学会で、第4代理事長の齊藤幸一さんにもいろいろなお話を伺うことが出来ました。
塙保己一の銅像 |
塙保己一は教科書にも出てくる方ですので、ご存知の方も多いと思います。
江戸時代の国学者で、5歳のときに病気にかかり7歳で失明したにも関わらず、苦難を乗り越え、全666冊にも及ぶ『群書類従(読み:ぐんしょるいじゅう)』を編纂・刊行されました。
『群書類従』の和本 |
『群書類従』とは、日本の古代・中世・近世の貴重な歴史書・文学書といった古典籍が散逸、焼失してしまったことを憂い、これらを集書刊行して世に広めようと塙保己一が企画しまとめた大叢書です。 完成(1819年)までに40年もの歳月を費やす、まさに大事業でした。(詳しくは温故学会のHPに記されています)
さてこの『群書類従』ですが、どのような印刷方法で刷られたのでしょうか。
現在の主流はオフセット印刷(他にもいろいろとありますが)で、印刷機に紙をセットすればあっという間に大量の印刷が出来ます。 しかし、江戸時代には当然そのような優れた印刷機はありませんでした。 木に文字を彫り、墨を付け、紙を押し当てるという、いわゆる手刷りで一枚一枚印刷していったのです。
『群書類従』の版木 |
印刷することも大変な作業ですが、それ以上に版を彫るということが大変なことでした。
塙保己一は目が見えないため、口でしゃべったことを他の人が紙に書き、それを裏返して木の板の上に乗せ、文字の部分を残すように職人が彫っていきます。
その数なんと17,224枚。(表・裏両面彫りのため約34,000ページ分。1枚の大きさは、横 470 × 縦 230 × 高 15mm、重さ 1.5kg)
硬く丈夫でありながら加工のしやすい山桜の木が版木として用いられました。
一文字一文字しっかりと彫られている |
現在も1枚も欠けることなく温故学会に保管され、国の重要文化財にも指定されています。
実はこの『群書類従』の版木の文字数が、縦20文字、横10行が2段で400字に統一してあるのです。(一部そうでないものもあります)
温故学会では今でもこの版木を使って印刷をし、製本して納めるという注文を承っています。 200年近く前に作られた版木が現在も現役で、しかもまだきれいに印刷出来るということに驚きました。
版木から和紙に印刷された1枚 |
齊藤理事長のご厚意で、印刷したものを1枚分けて頂きましたのでその写真をアップ致します。 罫線はありませんが、20字 × 20行の形でとてもきれいに文字が並んでいますね。
この『群書類従』の400字詰めの版木が、現在の原稿用紙の様式の元となっているということが、熊田淳美氏の「三大編纂物 群書類従・古事類苑・国書総目録の出版文化史」(勉誠出版)の中に記されているという情報がありました。 私も早速この本を読んでみたのですが、その内容の記述部分を見つけることが出来ませんでした。恐らく私の読み落としでしょう。 これについては、また機会を作って注意深く読み直してみたいと思います。
温故学会内に保管される『群書類従』の版木 |
『群書類従』は後世に多大な影響を与える叢書であったことから、この版木が「400字詰めの起源」になったと考えるのは妥当と言えるかも知れません。(これよりも前の時代で、京都・萬福寺の禅僧、鉄眼による版木も400字であり、元はこちらともされています。鉄眼についてはまだ取材出来ていないため、いずれまた詳しく触れたいと考えています)
ここで、最初に申し上げた「400字詰めの起源」と「原稿用紙の起源」についてです。
『群書類従』や鉄眼の版木は文字を先に彫って印刷するものであるのに対し、原稿用紙は罫線のみを印刷した紙に後から文字を書き入れるものです。そのようなことから、同じ400字であっても用途が違うものには別の起源があると考えるのが自然ではないか、というのが私の考え方です。
版面が擦れないよう、1枚ずつ 端喰(読み:はしばみ)が嵌められている |
先ほどご紹介した版木で印刷された紙の画像の通り、『群書類従』の版木には罫線がありません。原稿用紙の最大の特徴と言っても過言ではない罫線、そして升目が存在しないということも「起源が別にあるのでは?」と考えさせる理由の一つです。
歴史の古い版木の文字数が先に400字に定着し、後から生まれた原稿用紙がその流れを汲んだとも考えられます。ただもしそうであれば、その根拠を探したいと感じました。
温故学会の齊藤理事長とお話する中で、塙保己一が採用した400字という文字数についていろいろと考えを巡らせてみました。
以前「温故堂書室用」として使われていた 440字詰め原稿用紙 版木による手刷りと見られ、記述には 明治36年とある |
なぜ500字等もっとキリの良い数ではないのか。
まず先ほども少し触れた鉄眼の存在が考えられます。黄檗版鉄眼一切経(読み:おうばくばんてつげんいっさいきょう)の版木は1681年に完成しています。当時すでに有名であったはずなので、当然保己一は知っていたと思われます。鉄眼の版木が400字詰めを採用していたため、その形式を取り入れたということは十分考えられるのです。(ただし、それを示す記録は残っていません)
『群書類従』には草書で彫られた部分もある |
もう一点。版木は彫り師が何の見当もなく字を彫っていくのではなく、字の書かれた紙を木に当て目安にしながら彫っていきます。当然元となる紙には筆で書くので、紙の大きさ、余白、字の大きさの点から400字が妥当という考え方も出来ます。筆で小さな文字を書くことは大変ですし、それ以上にその小さな文字を彫ることは難しく時間がかかってしまうでしょう。
更に、美濃判の紙で天・左右にスペースを取った状態で、ある程度読みやすい大きさの文字数というと400字程度ではないかという考え方もあります。
当時は蝋燭も貴重品であったため、魚の脂等粗悪な燃料で灯りをつけていることが多く、とても暗かったそうです。夜書物を読む場合、特に目の悪いお年寄りにはこれ以上小さい文字は読みづらいと考えられます。
かと言ってこれ以上字を大きくすると1枚当たりの文字数が少なくなり、版木がその分多くなってしまいます。ちょうど良い文字数が400字であったのではないでしょうか。
こういったいろいろな点から、そして黄檗版鉄眼一切経や『群書類従』が後世に与えた影響から見ても、400字詰めが定着するきっかけとなったのが鉄眼や塙保己一の版木であると言えるかも知れません。
ただ400字詰めとなった経緯については、別の見方をされている方もおり、引き続き調べていきたいと考えております。
今回は400字詰めという文字数から「原稿用紙の起源」の考察にまではつなげることが出来ませんでしたが、鉄眼の版木も含め今後また折りを見て探っていきたいと思います。長文最後までお読み頂きありがとうございました。
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